三本槍の八咫烏Ⅱ

「殺すな」
低い声だった。
だが、その一言だけで、
五瀬(イツセ)を取り囲んでいた
兵たちの動きが止まった。
死期を悟り、
兄妹である景継(カゲツグ)に
率いていた軍を引き継がせ
一人残された
五瀬だったが
そこでは、
何人もの敵の兵たちが倒れ、
なおも五瀬は刀を構えたまま、
そこにいた。
泥と血にまみれ、
握った刃にも
赤黒いものが残っていた。
退路はない。
それでも五瀬は、
まだ戦うつもりで
そこに立っていた。
そして、
兵たちの向こうから、
一騎の馬が
ゆっくりと近づいてくる。
馬上には、
ひときわ大柄な男がいた。
「……!」
兵の一人が振り返る。
「しかし、速日(ソクビ)様!」
登美国(トミノクニ)の主――速日。
五瀬も、
その名くらいは知っていた。
「連れ帰れ」
その重い言葉に
頭を打ち付けられながら
敵の兵は周囲を見渡した。

「しかし……」
倒れている仲間たち。
呻き声を上げる者。
肩を貸されて
ようやく立っている者。
そのすべてを見て、
なお食い下がる。
「この者は、
我らの仲間を何人も……」
彼らが仕える主の放つ言葉は
変わらない
「連れ帰れ」
速日はもう一度、
まったく変わらない調子で
そう応えた。
そして続ける。
「この者は客人として持て成せ」
「……!?」
兵たちの間に
動揺が走った。
速日は
そんな彼らを気にも留めず、
五瀬だけを見た。
「来てくれるな?」
武器を収め、
おとなしく投降しろ
ということだろう
雑兵では自分を倒せぬと悟り、
そろそろ名高い
天津の将のいずれかが
出てくる頃合いだと
思っていた。
だが――
まさか国の主
自らが出向いてくるとは。
しかも、己の兵を
これだけ
倒した男を前にして、
刃を向けるでもなく…、
ここまで
堂々と迎えられては、
こちらも
無粋には振る舞えまい。
五瀬は刃を鞘へ収めた。
その五瀬の姿を見て、
速日は
満足そうに笑った。
*
登美国(とみのくに)ーーー
「五瀬殿!」

声とともに、
一人の少女から
一本の木刀が差し出された。
歳は景継と
同じくらいだろうか?
木刀を二本持ち、
そのうち、
一本を
こちらへ向け、
もう一本は、
彼女が
反対の手の方で握っている。
「手合わせ願いたい!」
五瀬の目の前に立っていたのは、
登美国の姫――華美(カビ)だった。
それを、
兵たちが
面白そうに
こちらを眺めている。
「また始まったぞ」
「姫様も懲りんのう」
「その者は
儂らが十人がかりでも
止められなんだ御仁(ごじん)ぞ?」
「最近は
新しい玩具(おもちゃ)まで手に入れて
もう朝から晩まで
その玩具に夢中じゃ」
そして
ガハガハと
豪胆な男たちの笑う声が続く。
華美の眉間に
しわが寄った。
兵たちを
睨みつけたあと、
一度目を閉じる。
しかし
大きく息を吐き、
努めて(つとめて)
平静な声で
五瀬に事情を話はじめた。
「……こやつらの申す通り」
「父上、速日から聞いた」
「貴殿は、
日向でも名の知られた、
たいそう腕の立つ御仁であると」
そして華美は、
五瀬を真っ直ぐに見る。
「願わくば――」
「私がこの者と共に、
戦場へ立てる武人となれるよう」
「武の手ほどきを賜りたい」
そこでようやく、
妙な音が耳に入った。
ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――
五瀬が視線を下げる。

登美ノ国は、
五瀬が育った
日向(ひゅうが)とは随分と空気が違う。
こちらの国では
笑い声と怒鳴り声が、
火の粉のように
そこかしこを飛び交っている。
無骨で豪放(ごうほう)な男たちが多く、
所狭しと
男たちがかなでる騒がしい喧騒に
紛れていたため、
今まで気がつかなかった。
華美の足元。
白い毛皮に覆われた、
犬らしきものがいる。
短い舌を垂らし、
荒い息を刻みながら、
短い四肢で
勇ましく大地を踏みしめている。
「……犬」
「いや……狸か?」
五瀬はその者の持つ
つぶらな瞳を
じっと見つめた。
しかし
白い毛は、
よく見れば風に
なびいているのではない。
炎のように揺らめいている。
「……霊獣というやつか?」
「おそらく…」
その様子を見た所、
華美も、その者の素性を
よくわかっていないようだ
「皆が戦へ出たあと、
私一人で
国に残っていた時」
「魔術師を名乗る男が現れてな」
「その者に
私も父上や皆を守るため、
本当は戦場へ赴きたいと――」
「そんな弱音を、
つい漏らしてしまい」
「すると、その男が
この宝具(ほうぐ)を
私にくださったのだ」
華美は胸元から
何かを取り出し
こちらに差し向けてきた。
華美の掌の上で、
小さな光が浮かび上がる。

「この宝具に念を込めると
どうやら
この者は姿を現すようでな」
開いた蓮を思わせる、
金色の宝具。
その中心では、
淡い光を宿した珠が
瞬いている。
さらにその周囲を、
勾玉。小さな鈴。金輪。透き通った晶片。
白く輝く霊珠。
五つの小さな宝具が
物理法則を無視し、
ゆっくりと宙を巡っていた。
そして
足元には炎の毛皮を持ち
荒い息を吐く
小さな犬の姿がある。
そして華美は
その宝具を
胸元へしまい
また木刀を一本
五瀬に向かって
差し出してきた
「どうか
私たちに稽古をつけてくれ」
「なるほど…」
今の五瀬が、
自国でどのような
扱いになっているのかは
分からない。
客人として
招き入れられたとは言え、
少なくとも、
目の前にいる姫様にとって
私は敵国の将だ。
ましてや、
周囲には登美の兵が大勢いる。
何かあれば
余計な角が立つだろう。
五瀬は
少し目を瞑り
考えたのち、
自身に
差し出された
木刀を取った。
そして
目の前の
敵国の姫に、こう告げる。
「承知した。」
華美の顔が明るくなる。
足元の白い犬も、
「きゃん!」
と勇ましく吠えていた。
*
昼を少し過ぎた頃。
川辺には、
三つの影が並んでいた。
五瀬。
華美。
そして白い犬。
正確には、
華美と、その犬は
半ば地面に転がっていた。
華美は髪を乱し、
衣には土がつき、
額には小さなこぶまで
出来ている。
隣の犬も、
白い身体を地面へ
寝体勢のように
ぺたりと伏せていた。
対する五瀬には、
傷どころか
息の乱れすらない。
華美が持ってきた
昼餉(ひるげ/昼食)を
二人と犬一匹で並び食す。
白い米を
固く握った飯。
それに、塩に漬けた大根。
五瀬は握り飯を見た。
粟(あわ)も稗(ひえ)も混じらぬ、
見事な白米のむすび。
その白米の白さから
隣で
ボコボコにされ
色んなところを
腫れ上げ(はれあげ)させている
華美の身分の高さが伺える。
「その者は、なんという?」
五瀬は
その白き飯を
一口、頬に入れながら
華美の隣にいる
白い獣を見る。
「佐比呼(さびこ)と申す。」
「餌は?」
「食わぬようじゃ」
「なるほど…」
犬を差し置き
このようなきれいな昼食を
食べていることに
少しだけ申し訳なくなった
しかしこの犬は
何を糧として
顕現(けんげん)を
保っているのだろうか。
華美から
霊力のようなものを
もらい受けているのだろうか。
それとも、
土地を巡る地脈や、
宙に満ちる
何らかの力を取り込み、
現世に
その姿を繋ぎ
止めているのだろうか。
身体を白い炎の毛皮で
覆い、寝そべっている
佐比呼を五瀬は
不思議そうにじっと見つめた。
「こちらの国では」
「こういったものは、
当たり前に存在するのか?」
「先ほど、
周囲の者どもは
玩具(おもちゃ)などと
呼んでいたが」
五瀬が尋ねる。
「いやいや」
「そんなことはない」
華美は大きく首を振った。
「ただ――」
「武を極めた者や、
名匠が打った業物」
「長く大切にされた品などに、
時として説明のつかぬ
力が宿る」
「そういった話なら
聞いたことがある」
「そして佐比呼も、
その類い(たぐい)だろうと
言われておる」
華美は
佐比呼の頭を撫でた。
「東の山に仕える巫(かんなぎ)などに
聞けば、何かわかるやも
しれぬが……」
「この戦乱の世だ」
「おいそれと
尋ねに行くわけにもいかず」
「この宝具をいただいたのも、
ほんの数日前でな…」
「なるほど……」
五瀬は頷くように
大根の塩漬けをつまみ
口へ放り込んだ。
華美は膝の上で手を組む。
「しかし……」
「先ほど手合わせして
いただいた通りだ。」
「この宝具があるからといって、
それだけで軍勢を
退けられるような
術(じゅつ)ではない」
「ましてや、
貴殿のような武人はもちろん」
「雑兵一人にすら、
今の私では
まともに立ち向かえぬだろう」
華美は苦笑する。
「だが、あの魔術師は
この宝具が
どれほどの力を持つかは
私次第だと言っておった。」
「ならば、
この者と共に
鍛錬を積めば」
「いつか、父上や皆の役に
立てるのではないかと思ってな」
五瀬は華美を見る。
「それで、
お前の父親が噂する
俺に声をかけた、と」
「……すまぬ」
どうやら親娘共々
新しいもの好きらしい
華美は
少し飲み込んでから
話を続けた。
「この国は、
姫娘である私にも
平気で軽口を叩くような」
「豪放(ごうほう)な男どもで
溢れておる」
「普段は、
うるさいくらいだ」
「だが、戦になるたび――」
「父上も、
あの者たちも、
皆この国を離れる」
華美の声が少し落ちる。
「するとこの国は、
嘘のように静かになる」
「そしていつも」
「祭りの後のように静まり返った
この国に、
私は一人、
そこに置いていかれる」
「私も何か役に立ちたい」
「……」
五瀬は、
先ほどもそうだが、
目の前の娘に、
別の少女の姿が重なっていた。
妹――景継。
年の頃も、
そう違わない。
武人たちに囲まれ、
武家の娘として育ち、
自分に足りないものを知り、
それを悔しがっていた
五瀬の実妹。
景継にも、
稽古をつけてほしいと
言われたことがあった。
だが五瀬は、
お前には
後方の方が向いている。
そう言って、
兵の動かし方。
退路の作り方。
陣の守り方。
安全な場所から
戦を支える術ばかりを教えていた。
それでよいと思っていた。
自分が前にいる限り、
後方まで
敵兵を通すことなどない。
そんな前提の上で。
だが今は――
自分はここにいる。
景継は、あちらに残った。
あの時もっと、
剣を教えていれば。
自分がいない場所でも
生き残れる術を、
もっと教えてやれていれば。
「……」
いつの間にか、
随分と長く
黙り込んでいたらしい。
華美は断られると思ったのだろう。
俯き(うつむき)
不甲斐ない
自分の膝の皿を
見つめている。
その隣では、
佐比呼が
川を眺めながら
静かに伏せていた。
そんな二人の姿を見て
五瀬は口を開く。
「引き受けた」
華美が顔を上げる。
「俺でよければ」
「稽古をつけよう」
*
それからの日々は、
華美にとって
散々なものであった。
五瀬へ斬りかかれば、
木刀を弾かれる。
佐比呼が
背後から飛びかかれば、
ひらりと避けられる。
そのまま勢い余って、
華美と佐比呼がぶつかる。
佐比呼と作戦を練り
何度も何度も
五瀬に挑んだ。
しかし
その度
二人とも地面に転がっていた。
「姫様ー!」
「昨日より三息もったぞ!」
「大進歩じゃ大進歩じゃ!」
周囲の兵たちが笑う。
華美は地面に倒れたまま、
「うるさい!」
と怒鳴った。
佐比呼も、
「きゃんきゃん!」
と抗議する。
その華美たちの姿を見て
男たちは
さらに笑い声を大きくする
だが、翌朝になると、
また華美は約束通り
木刀を
二本持ってやってくる。
「五瀬殿!」
そして
五瀬は
木刀を受け取る。
その翌日も。
また翌日も。
一度として、
華美は五瀬に
打ち込む事ができなかった。
それでも――
一度として、
華美と佐比呼が
来なかった日は
なかった。
*

そして
華美は川へ向かって
大きく息を吸う。
「あの男!!!!!!」
「稽古はつけてくれるけど」
「何も教えてくれない――!!!!!」
日が暮れた川辺に、
華美の叫び声が響いた。
「きゃんきゃんきゃーん!」
隣で佐比呼まで吠えはじめた。
華美は
その場に座り込み膝を抱えた。
五瀬は、
何も教えてくれないわけではない。
だが感覚で戦ってきた男なのだろう。
そして口数も少なく、
説明があまりにも少ない。
そのうえ――
「ここで俺が踏み込んだら、
お前は木刀を
こう持ち替えろ」
「うむ」
「そのとき、
佐比呼は
俺の右足を狙え」
「きゃん!」
そして、
同じ流れになるよう
お互いに合わせてみる。
そして、
華美が木刀を持ち替える。
佐比呼が右足へ飛び込む。
しかし
五瀬は反射的に一歩引き、
今しがた
自分で教えた動きとは
まったく別の動きで
二人をかわし
こつ。
こつ。
その流れのまま
華美と佐比呼の頭へ、
順番に木刀を当てた。
「……」
「……きゃん」
五瀬は
しばらく二人を見てから、
「すまん」
と言った。
「さっき言ったことは忘れてくれ」
「何なのだあの男は――!!」
再び川へ向かって叫ぶ。
そして
反省会をするつもりだった
華美と佐比呼は並んで川辺へ座り
そのまま、
風が心地よくなり――
いつの間にか、
二人とも眠ってしまった。
次に華美が目を開けた時。
空はすでに明るかった。
そして隣には、五瀬が座っていた。
「起きたか」
「……寝て……?」
「!?」
華美は
妙な姿勢で寝ていたらしい。
よだれを垂らしていることに
気づき、
慌てて袖で拭う。
五瀬は川を見たまま言った。
「お前の父親――速日が、
昨晩、俺の寝屋へ来た」
「娘が戻らぬ、と」
「……」
五瀬はそれ以上何も言わなかった。
だが華美にも分かった。
おそらく、
五瀬が探しに来たのだ。
そして
自分が目を覚ますまで、
ここにいた。
私が寝込みを襲われぬよう、
見張っていてくれたのだろう。
五瀬は
一度も華美を見なかった。
ただ川の流れを眺めている。
昨晩から、
五瀬はまともに
眠っていないのかもしれない。
それなのに、
いつもと何も変わらない
涼しい顔をしていた。
華美は
その横顔を見ながら、
胸の内で決めた。
必ず――
いつかこの男を超える。
その日の稽古も、
華美と佐比呼は
寝不足のはずの
五瀬に散々打ちのめされた。
そしてまた
自国の兵たちに、
大笑いされた。

*

その日は朝から、
国や城の空気が
違っていた。
鎧をまとった男たちが、
次々と
北門へ向かっていく。
普段は聞こえる
牛丸(ウシマル)の大きな笑い声。
荒戸(アラト)の怒鳴り声。
巌次(ガンジ)の、相変わらず
人を食ったような軽口。
彼らもまた、
皆、戦支度をし
北門へと向かっていた。
北――
師木ノ国。(シキノクニ)
近頃、
勇猛な武人たちが集まり、
大規模な戦を
企てていると聞く。
華美と佐比呼は、
北門から出ていく男たちの背を
しばらく眺めていた。
そして、
何も言わず、
いつもの稽古場へ向かった。
やがて、
いつもの場所へ着く。
だが――
静かだった。
普段なら、
「姫様、今日こそ一本取れよ!」
「佐比呼、そこじゃ! 噛みつけ!」
などと
好き勝手に
囃し(はやし)立てる
男たちがいる。
しかし
今日は誰もいない。
皆、戦場へ行ったのだ。
そして目の前には、
いつものように
五瀬だけが立っている。
この場には、
華美。
佐比呼。
五瀬。
三者だけが、
国から取り残されたように立っていた。
そして華美は木刀を握り直した。
「五瀬殿」
「今日も――」
「よろしく頼む。」
*
木の刀がぶつかる
乾いた音が、
静かな稽古場へ響いた。
五瀬は、
最初の一太刀で気がついた。
――いつもの二人ではない。
初めて華美と打ち合った頃。
華美はただ、
力任せに木刀を押し込んできた。
当然、
腕力では五瀬に敵わない。
そして
そのまっすぐに飛んできた
木刀を弾き、
華美が身体を
仰け反らせたところへ、
五瀬が距離を詰める。
そして、一撃。
それだけで終わっていた。
だが今は違う。
五瀬が
腕力で華美の木刀を
抑え込もうとすると
その瞬間――
力む五瀬に
横から白い影が
攻撃を仕掛けてくる。
佐比呼。
五瀬は
木刀を合わせた場所から
下がらざるを得ない。
佐比呼へ意識を向ければ、
今度は華美の木刀が迫る。
華美を押し込めば、
その隙を佐比呼が狙う。
初めの頃は、
上手く連携がとれておらず、
二人が
同時に攻めようとして、
簡単に互いの進路を塞ぐことができた。
しかし
今はもう、
そんなことはない。
華美が前へ出れば、
佐比呼は横へ。
佐比呼が
五瀬の視線を奪えば、
華美が間合いを詰める。
一言も、
声を掛け合ってはいない。
それでも二人には、
次にお互いがどこへ動くのか
分かっているようだった。
五瀬は
華美を正面に捉えたまま、
少しずつ足の位置を変える。
背後を佐比呼へ渡さないためだ。
いつの間にか、
随分と
面倒な相手になったものだ。
*
だが――
まだ足りない。
華美が打ち込む隙を
作ろうと、
佐比呼が飛び込んだ。
五瀬は身体を開き、
攻撃を避け、
その勢いを利用して、
佐比呼を足で弾き飛ばす。
「きゃん!」
その瞬間。
五瀬は華美へ踏み込んだ。
一撃。
さらに二撃目。
一撃目で
握り手が弱くなり
華美の木刀が浮く。
そして二撃目で
強く木刀を打ち合わせる。
「っ――!」
華美の手から、
木刀が吹き飛んだ。
からん。
からから、と、
木刀が地面を転がる。
確かに上手くなった。
最初に比べれば、
剣を交えた時の駆け引きは
格段に良くなっている。
だが。
斬り込む瞬間、
ほんのわずかに迷う。
自分の剣で本当にいいのか。
自分の剣が本当に通るのか。
華美はまだ、
己の剣を信じ切れていない。
*
そして
五瀬は、
そのまま木刀を失った
華美との距離をつめ。
いつものように。
負けた華美の頭を、
木刀で軽く小突いて終わる。
そのつもりだった。
木刀を振り上げ、
木刀を振り下ろす。
だが――
白い影が、
突然その軌道へ飛び込んだ。
「――!」
佐比呼。
五瀬は反応した。
だが、
すでに振り始めた
木刀の勢いを
完全には殺せない。
鈍い音がした。
佐比呼の
小さな身体が宙へ浮き、
地面へ転がった。
「……!」
五瀬は目を見開く。
なぜだ。
なぜ庇った。
これまで何度も稽古している。
五瀬が、華美を本気で打たぬことくらい、
佐比呼も分かっているはずだった。
いつも寸前で力を殺す。
せいぜい、頭を軽く小突くだけ。
それなのに。
――なぜ。
そこで五瀬は、
今日の
二人の立ち居振る舞いを
思い出した。
そして最初の一合から、
いつもと違っていた。
気迫が違う。
必死さが違う。
五瀬はようやく気づいた。
自分にとって、
これは
今日も変わらぬ稽古だ。
勝って。
教えて。
明日また、
同じ場所で
続きをすればいい。
だが――
この二人にとっては違う。
今この瞬間、
ここは稽古場ではない。
戦場なのだ。
今日の二人が背負っているのは、
自分たち二つの命だけではない。
北門を出ていった男たち。
その帰りを待つ者たち。
この国で暮らす者たち。
今ここにはいない、多くの命。
華美は、
そのすべてを背負って
自分の前に立っている。
これは、
一本を競うための稽古ではない。
華美にとっては――
一国の命運を懸けた
一戦なのだ。
華美は、
倒れた佐比呼を見た。
しかしそれは、
ほんの一度だけだった。
そしてすぐに、
地面へ転がった木刀を拾う。
構え直す。
五瀬を見る。
その目には、
もう先ほどまでの
迷いがなかった。
自分に出来るのか。
この剣でよいのか。
そんな問いは消えている。
ただ一つ。
自分がやらねばならぬ。
それだけを
決めた者の目だった。
華美が踏み込む。
木刀が振り下ろされる。
五瀬が受ける。
――重い。
「……!」
思わず
五瀬の身体が仰け反った。
「……!!」
華美は、
力任せに振っているようには
見えない。
むしろ以前より、
軽く。
滑らかに。
木刀を扱っている。
なのに、
一撃だけが異様に重い。
華美はさらに踏み込み
身体をひねる。
そして、その勢いのまま――
五瀬の右脇腹へ
木刀を振り抜いた。
「――!」
五瀬も、
華美の一撃により
身体が流れた勢いを殺さず、
そのまま腰をひねり、
辛うじて木刀を差し込む。
そして木刀を使い、
打撃を受け流す。
そしてその
華美の動き。
それは
先ほど、
佐比呼さえ割って入らなければ、
自分が華美へ
叩き込んでいたはずの
一連の動きだった。
五瀬は危険を感じ、
華美から距離を取る。
五瀬は目を細くし。
木刀を持つ手を握り直す
改めて目を凝らすと
華美の身体から、
白い気のようなものが
立ち昇っている。
しかし
華美は五瀬しか見ていない。
それ故
おそらく華美は
気がついていないのだろう。
佐比呼の姿が
消えていることに。
代わりに、
華美に力を貸す霊力のように
華美の周囲を
白い気のようなものが漂っている。
――あの獣の力か。
佐比呼は消えたのではない。
私をこの場で
仕留めなければならない。
その主の覚悟に呼応し、
華美に力を貸しているのだろう。
再び、木刀がぶつかる。
また五瀬が押された。
「っ……!」
重い。
華美は軽々と振っている。
なのに、
受けるたび、腕の芯まで響く。
一撃。
二撃。
三撃。
華美の剣が、止まらない。
その姿を見て、
五瀬の脳裏に、
別の少女が浮かんだ。
景継。
――ああ…。
お前にも。
もっと剣を教えてやれていたなら。
本当は、
もっと――
その一瞬だった。
華美の木刀が、
五瀬の左肩へ届いた。
とん。と、
それは小さな音だった。
だが、
その瞬間だけ、
世界そのものが
息を止めたように
静まり返った。
そして次の瞬間。
張り詰めていた空気が、
一斉に息を吐き出すように
解けていった。
それが、
二人の決着を告げる音となった。

*
華美は、
しばらく動かなかった。
自分の木刀が、五瀬の肩へ触れている。
その光景を、
まるで他人事のように見つめる。
「……入った?」
五瀬は何も言わない。
「私が……?」
華美の目が、少しずつ大きくなる。
「五瀬から一本取った!?」
五瀬は、
華美の放つ
最後の一撃を防ごうとして
間に合わず、
途中で止まったままに
なっていた木刀を、
ゆっくりと下ろした。
その瞬間。
「やった――!!」
華美は木刀を胸へ抱きしめ、
我を忘れて飛び跳ねた。
すると、
少し離れた場所で
白い炎のようなものが
揺らめく。
その中から、
小さな犬の姿が現れる。
「きゃん!」
「佐比呼!」
佐比呼も飛び跳ねる。
華美も飛び跳ねる。
二人そろって、
何度も何度も
その場を跳ね回った。
五瀬は、しばらく黙ってそれを見ていた。
そして一言だけ。
「……見事だ」
華美は佐比呼を抱き上げる。
その顔には、
自分たちの身に
何が起きていたのかなど
まるで分かっていない様子だった。
佐比呼…いや、
あれは霊力だったのだろうか?
あれはまさしく
仲間や国、友の命を
背負った華美の覚悟に
呼応した力だったのだろう。
霊獣とは、
その者の覚悟に応え、
共に戦う存在なのかもしれない。
「霊力……か」
五瀬は自分の左肩へ手を置いた。
まだ、
華美の一撃の重さが残っている。
自分はこの国で、
ただ命を拾われただけだと
思っていた。
だが――
どうやら。
「俺もまだ……
武人として、
学ぶべきものがあるらしいな」
華美と佐比呼が
嬉しそうに
じゃれ合う姿を見ながら、
五瀬は小さく笑った。
